思い出の松阪牛

大学進学を目指して進学校へ進んだ私は、中学卒業とともに親元を離れ下宿生活を始めました。

地元の高校では大学へ行く者が少なかったので遠くの学校を選ばざるを得なかったからです。

三年が過ぎ無事大学へ、

と言いたいところでしたが成績は芳しくなく希望する大学に受かる可能性は極めて少ない状況、

悩んだ末に出した結論は東京に出て就職するというものでした。

言ってみれば入試に落ちることから逃げてしまったわけですが、

決めた当初の両親の落胆ぶりは相当なものでした。

夏が過ぎ進路を決定してから数ヶ月はほとんど親とは会う機会がなく、電話での会話もなし。

最後の学期も終わる頃、父が出張帰りに下宿に寄りました。

久しぶりに二人で外食、何ともギクシャクした嫌な空気が流れています。

父は無言で車を走らせるとあるレストランに連れて行きました。

そこは地元だけでなく全国に名の知れた松阪牛の専門店、

私はもちろんのことおそらく父も初めて足を踏み入れるであろう誰もが知る高級老舗レストランです。

父は黙って私の先を歩いていき店の人に予約の確認をしていました。

私達は個室に通されましたが、何しろメニューは松阪牛がメインでどれも高価なものばかりです。

松阪牛と言えば幼い頃すき焼で何度か食べたことはありましたが、

まだ何が美味しいかわかるような歳でもありませんし、

ただ両親がご馳走だからと言う言葉だけ覚えていた程度です。

想像するに父もそんなに頻繁に食べる機会はなかったはずです。

なぜならそれほど余裕のある暮らしをしてはいないのを子供ながらに感じていたからです。

しばらく黙り込んで父が頼んだのは松阪牛のステーキセットでした。

オーダーが運ばれてくるまでのわずかな時間、やっと父が話し始めました。

落胆した数ヶ月前のこと、母の伝言、そして先々のこと、私も気持ちを隠さず正直に答えました。

会話の最後に父が言いました。

結果はどうであれ、東京で頑張ってこい。

家族みんなで応援しているから、と。

私は涙が溢れそうになるのを我慢し、黙って頷きました。

部屋にステーキが届けられました。

あの味はおそらく忘れることはないでしょうね。

何て美味しいんだと思いました。

松阪牛の美味しさを初めて知った瞬間だったかもしれません。

父とのわだかまりが解けた日でもありましたが、そんな日に父は私を祝福してくれようとしたのです。

そして彼が選んだのは松阪牛の名店、父にとっても忘れられない日になったかもしれません。

あれからもう随分月日が流れました。

今またあの店に行ったらどんな味がするんでしょう?